「ルールが変えた戦術」は、1つのルール改正を取り上げ、それがどのような経緯で、戦術の何を変えたのかを解き明かす連載コンテンツ。今回取り上げるのは、1906年に認められたフォワードパスだ。解禁されたその年のルールが何を禁じていたのか、そして失敗の代償が下がるにつれてパスがどう使われるようになったのかを解説する。
前へ投げられなかった時代
1900年代のはじめ、フットボールは前へ投げることができない競技だった。ボールを前へ進める手段は、走るか、後ろへ放るかのどちらかしかない。必然的に攻撃は人を1か所に集めて押し込む形になり、守備もまた同じ場所に集まった。
1905年、この密集のなかで重大な事故が相次ぎ、競技そのものの存続が問われる事態になった。翌年のルール改正は、その危機に対する答えとして出てきたものだ。前へ投げることを認めれば、選手が一点に集まる必要がなくなり、フィールドは広く使われる ― 狙いはそこにあった。
1906年、解禁。ただし条件つき
認められたこと
1906年のルールは、プレー開始時にスクリメージラインより後方にいた選手が、前方へボールを投げることを認めた。走るか、後ろへ放るかしかなかった競技に、3つ目の選択肢が加わった。
禁じられていたこと
ただし、そこには現代のパスからは想像しにくい制約がついていた。
まず、センターから左右5ヤードの空間を越えて投げてはならない。フィールドの真ん中が使えず、パスは必ずどちらかの外側を通さなければならなかった。
次に、投げたボールが誰にも触れられずに地面へ落ちた場合、そのプレーはダウンを1つ消費して終わるのではなく、投げた地点で相手ボールになった。失敗が、そのまま攻撃権の喪失を意味していた。
さらに、パスは1つのダウンにつき1回だけ。投げ直しはきかない。捕ることができるのも、ラインの両端に立つ2人と、バックフィールドの選手に限られていた。ラインの内側に並ぶ選手は捕れない ― いまの「資格のあるレシーバー」という考え方の原型が、ここにある。
これだけの条件がついたパスが、攻撃の主軸になりようはなかった。使えば陣地と攻撃権を同時に失いかねず、しかも通せる場所が限られている。ルールの上では解禁されていても、フィールドの上ではほとんど選ばれない ― 解禁の年のフォワードパスは、そういうものだった。
失敗の代償が下がるたびに、パスは動いた
1907年 ― 攻撃権の喪失から15ヤードの罰退へ
翌1907年、不成功のパスに対する罰は、攻撃権の喪失から15ヤードの罰退に変わった。依然として重いが、1回の失敗でその日の試合が決まってしまうほどではなくなった。
1910年 ― ダウンを1つ失うだけになった
さらに1910年、フィールド内で不成功に終わったパスから罰退が消え、ダウンを1つ失うだけになった。ボールは投げた地点に戻される。現在のインコンプリートパスの扱いは、ここで形ができている。
もっとも、代償が一直線に消えたわけではない。同じシリーズの中で2本目以降の不成功パスに5ヤードの罰退を科す規定が1926年に入り、1934年に外れている。投げること自体に代償を課すという発想は、そう簡単には抜けなかった。
1933年、プロが独自の線を引いた
プロは長く大学のルールを借りて使っていたが、1933年2月25日、NFLは独自の改正に踏み切る。スクリメージラインの後方であれば、どこからでも前へ投げられるようになった。それまで必要だった「5ヤード後方から」という条件が外れ、投げる位置そのものが自由になった。
同じ年、NFLはハッシュマークを導入し、ゴールポストをゴールラインの上へ移している。プロが大学と同じ条文を使う時代は、この年に終わった。
まとめ
フォワードパスは、1906年に一度で解禁されたわけではない。解禁されたのは「前へ投げてよい」という一点だけで、どこへ投げられるか、失敗したら何を失うか、誰が捕れるかは、そのあと四半世紀あまりをかけて少しずつ変わっていった。
そして戦術は、条文が変わるたびに動いたのではなく、失敗の代償が下がるたびに動いた。3rd&10でレシーバーが空いていなければボールを投げ捨てる ― いまなら当たり前のこの判断は、不成功が攻撃権の喪失でも15ヤードの罰退でもなくなって、はじめて成り立つものだ。